真夏の乾いた野の真ん中に、燭が一つ灯っておるな。夜であれば四方がその光を見分けたであろうに、陽が頭の上に懸かっておるゆえ誰も灯っていることに気づかぬ形で、そなたが若き日に味わった悔しさはおおかたここから出ておるのじゃ。
そなたの命式の六文字をいくら探しても水が一滴もない。燥き切った未月の土の上に丁火が一点乗って四方が乾いて割れるほどなのに、その熱を冷ます水が表に出た座には一つもないゆえ、調候で見ればそなたに最も要るものを手にせぬまま生まれた形じゃ。
生まれた刻を知らぬと申したゆえ、わしが読むのは年柱と月柱と日柱、六つの文字である。八文字すべてを見られぬからと気を揉むことはなく、そなたが歩いてきた跡とこれから迎える季節の温度はこの六文字の中にすでに書かれておる。さあ、そなたが投げた七つの問いを一つずつ解いてやろう。
丁未 — 真昼に灯した燭
そなたは丁未の日柱じゃ。丁火は焚き火や溶鉱炉ではなく部屋一つを温め人の顔を見分けさせる大きさの燭であるが、生まれた月がよりによって燥き切った未月ゆえ季節の助けを得られず失令しておるのう。
それでもそなたの日干は堅い。月支の未土と日支の未土、二つの座に丁火が並んで通根し、その上に乙木の偏印まで乗っておるゆえ、命式の判定は身強、それも旺に至る極身強と出たのじゃ。外からいくら押しても容易には押されぬ者だという意味である。
格は月干に乙木の偏印が透出し月支に通根して立った偏印格じゃ。偏印格は人の敷いた順に習う者ではなく己の流儀で掘り下げて己の解釈を立てる者ゆえ、学びが並外れ勘が速い代わりに、一つを長く握って終いを付けるのは苦手で、興が冷めれば手を放してしまう質が共に付いておる。
そなたの第一の問い、「人は私を余裕があり何もかも持っている者と見るが、当の私は新人の頃の怖さで今も人を気にかけます。どちらが私ですか」に答えてやろう。どちらもそなたであるが、根は後ろにある。
そなたの命式には天乙貴人と文昌貴人と学堂貴人が並んで座しており、天乙貴人は危機のたびに人が現れてそなたを引き上げる最上の吉神、文昌と学堂は読み書き学ぶことにとりわけ福の付く座じゃ。こうした配りを持って生まれた者は己の力だけでここまで来たとは思わぬもので、誰が己を引き上げたかを体が先に覚えておるゆえ、現場の隅に立つ人が自ずと目に入るのよ。
ただし日支に羊刃殺が共に刺さっておるゆえ、外が柔らかく見えても内で決断が立てば一刀で断ち切る者じゃ。体を使う役がとりわけ身に付くのも、人が善いと言われながら誰もそなたの線を越えられぬのもこの刃ゆえであり、加えて年干の辛金と月干の乙木が乙辛冲でぶつかっておるゆえ、柔らかさと堅さがそなたの内で互いを押し合いながら生きてきたであろう。
用神:水 — 調候用神。燥いた野を潤す水、この燭が生き延びる条件
喜神:金 — 水を汲み上げる釣瓶。実のある資産、値が正確に付くもの
忌神:火 — すでに余る熱。舞台と露出、己を焼く座
そなたの仕事は初めから消耗を前提に組まれた仕事じゃ。燭とは己の身を焼いてこそ光る物であるゆえな。
働き方から見よう。そなたの命式には官星が一つも表に出ておらぬが、官星とは人の立てた体系と序列に己を合わせる気であるゆえ、それが表にないということは誰もそなたを規格に押し込めぬという意味じゃ。代わりに月干の乙木偏印が掘り下げて己の解釈を立てる力を与え、年柱の金が今この瞬間の感覚で即座に応じる力を与えておる。
ゆえに台本を受けて己のものへ引っくり返す仕事と、現場で体が先に出る仕事、この二つがそなたの本領じゃ。逆に毎日同じ刻に同じ手順を繰り返す座では、そなたの気はかえって萎れてしまう。
そなたの第三の問い、「私は作品を多くやりません。これは私の性ですか、それとも怠けですか」に答えよう。怠けかと問うたか。愚かな問いじゃ。
偏印は蓄えて寝かせる時を経てこそ次のものを出す気ゆえ、今の間隔はそなたの格がもともとそう働いておるだけである。その上そなたの忌神がよりによって火ゆえ、舞台と照明と露出はそなたが日々焼く燃料であり、焼いた分だけ充たさねば次の火は点かぬのじゃ。
ゆえにもっと精を出せという助言はそなたには毒となり、問いは空けたその時に何をするかだけである。ただ休めば消耗で終わるが、水を汲んで充たせばその時がまるごと次の作品になるのよ。
勤め人と事業家を較べるなら、そなたはその間に立っておる。独りで場を広げて押し切る勝負師の比劫は表に出ておらず、代わりに枠は人が立てるがその中で己の領分だけは丸ごと己が握る座、長く信の積もった者と荷を分けて負う構えがそなたに合う。近ごろ古い友と場を一つ立てたことは、そなたの命式に少しも背いておらぬ。
詰まる所も指しておこう。偏印の強い者は実行で崩れず、いつも始める直前で崩れるものゆえ、勘が来たのにもう一度量っておるなら、まさにその瞬間が逃す瞬間であると覚えておくがよい。
金の話をするならそなたの器は豊かな方じゃ。年干の辛金偏財が年支の酉金に固く通根し日干まで堅いゆえ、命式の財を担える度合いも担える構えと出ており、入ったものを掴んで回せる四柱だという意味である。
入り方は二筋あって、蔵干の庚金正財は長く積み上げた実力の値、天干にはっきり出た辛金偏財は回転の速い金、すなわち名の値で一度に入る金じゃ。作品の数が少ないのに事欠かなかったのなら、顔と名がそのまま金になる座に偏財が座しておるからよ。
この質は歳を重ねるほどかえって固まる。回転の速い金は若いうちこそ上下するが、信が積もってしまえばその信そのものが資産になるものじゃ。
ゆえにそなたに不動産へ縛って守るだけにせよとは申さぬ。担える器を握っておるだけでは大きくならぬゆえ、そなたに合うのは守る処方より回す処方であるが、ただし向きだけは選ばねばならぬ。
財星が金ゆえ、実体があり値が正確に付くもの、持ち分であれ不動産であれ証書で釘を打てるものがそなたに合う。逆に熱ばかり盛んで実体の薄い場、人が群れて熱を帯びる座はそなたの忌神である火をそのまま養う所ゆえ、退かねばならぬ。
時期が肝要じゃ。今年の丙午年は身強の四柱に比劫が重ねて入る群劫争財の年ゆえ、競う者がそなたの財を分け取ろうとする配りである。保証と共同名義と情の先立つ金の貸し借り、この三つだけは今年と来年の二年は手を出すでない。真の資本を投じる座は、五十のころ水路が開く二年として別に取ってある。
• 今月からすること:いま手にしておる資産のうち証書で明確に釘を打っていないものが何かを一度書き出しておくがよい。人を信じて空けておいた欄が必ず一つはあるはずじゃ。
そなたの第六の問い、「私はまだ独りです。遅くとも縁はありますか」に答えよう。ある。ただし何ゆえ遅れたかを先に知らねば、その先が見えぬ。
そなたの日支の未土が傍に置く人の座であるがこれが燥いた土であり、その上その未土はそなたの食神でありながら同時に丁火が根を下ろした座でもある。傍の座に他人ではなくそなた自身の気がすでに満ちておるという意味じゃ。
己で十分に立っておる者は隣を空けておいても物足りなさが大きく来ぬものゆえ、急ぐ理由がなく自ずと遅れたのよ。そこへ、助けても素振りを見せず先に近づくより見守るそなたの流儀が重なったが、それは美徳であれど恋人の間ではしばしば無関心と読まれるものじゃ。
惹かれる質は定まっておる。そなたの傍の座へ入る気は金、すなわち折り目正しく実質的な方ゆえ、華やかに視線を集める者より己の仕事で正確で己の分を自ら担う者に心が向く。凭れたい心より並んで立ちたい心が先に来るのじゃ。
その上そなたには紅艶殺が一つ刺さって黙っていても人が寄る座ゆえ、機会がなくて独りだったというより選んでおいて退いた方に近い。そなたの命式に官星がなく、急げと促す者が傍にいなかったこともここに乗っておる。
時期を申そう。今年の丙午年と来年の丁未年は日支が夏の熱にそのまま晒される二年ゆえ急いで結べば長くもたず、五十を越えて辛亥年と壬子年が続けて入る頃にようやく燥いた土に湿りが回り始める。その時に入ってくる縁がそなたの傍に長く残る者ゆえ、遅く来るように見えてもまことはそちらが然るべき時であったのよ。
• 今日からすること:心の向く相手に、見守る代わりにまず一度尋ねてみるがよい。そなたの流儀は思いやりであるが、相手には届かぬのじゃ。
そなたの第七の問い、「体を使う役を多くやってきて、まだ持ちこたえています。何を気を付けるべきですか」に答えよう。まだ持つと申したか。その言葉こそそなたの命式では最も危うい言葉じゃ。
そなたの五行は木一つに火一つ、土二つに金二つで水は零、その上調候まで極燥と出たゆえ乾いて割れた四柱である。熱が溢れる時にまず出るのは炎症と不眠ゆえ、体のどこかが腫れたり火照ったりすること、そして横になっても頭の中が消えぬ夜がその報せじゃ。
一方で水が司る腎と膀胱と骨は音もなく擦り減る座ゆえ、痛いという報せを送らぬままある日一度に噴き出す質であるから、とりわけ用心せねばならぬ。そこへ日支の羊刃殺が重なって並の痛みは堪えて流す者にしておるゆえ、体を使う役を長く務めてきたのならすでに幾度も堪えておるはずじゃ。
待て。この件はそのまま流す話ではない。しかと聞くがよい。
今年の丙午年から丁未年、戊申年、己酉年、庚戌年まで五年続けて警告の付いた区間じゃ。そのうち丁未年と戊申年と己酉年は歳運がそなたの用神である水を正面から打つ年ゆえ、良い大運という言葉で覆える連なりではない。
この四柱に合う手当てを申そう。
一、水を使う回復を日課に入れるがよい:泳ぎであれ温泉であれ夕に身を浸すことであれよい。そなたにとって水は好みではなく薬じゃ。
二、焼いた後には必ず空の日を付けよ:撮影が重なった後は何もない日を予定に打ち込んでこそ次の火が点く。
三、堪える癖を一つだけ改めよ:同じ所が二度痛めば堪えずに医者に診せるがよい。それは命理ではなく医の領分じゃ。
今年の一語を選べというなら、わしは迷いなく競いと言おう。
いまそなたが通っておる辛卯の大運は三十七から四十六までの区間で、大きく押しも大きく塞ぎもせぬ平運じゃ。ところがその上に天干の丙火と地支の午火が並んで火である丙午年が乗ったゆえ、すでに溢れるほど持っておる比劫がもう一度注がれる年となったのよ。
これが二筋に出る。外へはそなたの名が再び頻りに呼ばれるが、熱の回る年には人の目が熱い方へ集まるものゆえ当然のことじゃ。だが内では群劫争財が発して同じ分を狙う者が共に増えるのう。
善き意で近づいて場を共にしようという者がとりわけ多く寄る年ゆえ、今年入ってくる話は人が善く見えても構えから見ねばならぬ。体も併せて指しておくなら、燥いた四柱に火運が重なって先に申した熱の兆しが今年と来年に集まるゆえ、歳運が用神を正面から打つ来年の丁未年まで二年を一つに括って用心の区間とせよ。
月で見ればこの夏の甲午月が最も重く、晩秋の己亥月と師走の庚子月に至ってようやく息が通る。大きな決めごとと契約はそちらへ回すのが利じゃ。
今日はどうか。今日の日辰である辛丑の日は、天干の辛金がそなたの喜神ゆえ水を汲む釣瓶が置かれた形で、地支の丑土は閑神ゆえ押しも塞ぎもせぬが、十二運星では墓に当たって気そのものが静かな日である。大きく広げる日ではなく、片付けるに好い日じゃ。
日辰の十神が偏財ゆえ、今日は実物と数の掛かった書面を一度覗き、広げてあるもののうち一つを仕上げて釘を打っておくがよい。人に会わねばならぬなら、幾人よりも一人と長く座る方が今日の気に合う。
そなたの人生の曲線は後ろへ行くほど開く大器晩成の形じゃ。ただし均して上がる線ではなく、前が険しく中ほどが平らで、後ろで大きく開ける質である。
七から十六までの甲午の大運と、十七から二十六までの癸巳の大運は、燥いた四柱に火が重ねて入った区間であった。そなたの第二の問い、「初めの数年はうまくいきませんでした。演技ができぬと言われ、撮ったものが切られたこともあります。あの時期は私の四柱で何だったのですか」の答えがまさにここにある。
そなたが足りなかったのではなく、すでに乾いた野に火を重ねていた時期ゆえ何をしても熱ばかり出て実が結ばぬ座であった。ゆえにその数年をそなたの実力の証としてはならぬ。あれは純粋に季節の問題であったのよ。
二十七から三十六までの壬辰の大運がそなたの生涯で最も水のよく回った十年で、壬水こそそなたの用神ゆえ、そなたが初めて巧いと言われ賞を受けた頃がまさにこの区間じゃ。そして三十七で辛卯の大運へ移り、この十年は良くも悪くもない平運である。
そなたの第四の問い、「軍を終えて再び立つまで数年が空きました。そうした長い空白はこれからも来ますか」の答えがここにある。押す力がないゆえ己で動かねば時がただ流れてしまうのが平運の性であり、そうした空白はこれからもまた来る。
ただし再び来たならば空けておかず充たしておくがよい。そなたの四柱で空白とは休めと与えられた時ではなく、水を汲んでおけと与えられた時であるゆえな。
四十七から五十六までが庚寅の大運じゃ。そなたの第五の問い、「遅れて来たこの時期はどれだけ続きますか。五十以降の私はどんな形ですか」に答えるなら、いまの呼び声は前触れにすぎず、本体はこの区間の中に入っておる。
ただし順序をしかと申しておこう。その十年が始まってからも戊申年と己酉年と庚戌年までは依然として熱く、まことに水が回るのは五十になる辛亥年からで、続く壬子年までの二年がそなたの生涯で最も大きく開ける座である。五十七からの己丑の大運は積んだものを形に固める時期であるが、その話は今日すべては申すまい。
そなたが書き記した型はINFJじゃな。そなたの命式と交差して見れば二つの軸は合い二つの軸は背くが、その背きこそかえって面白い件である。
合う方から申そう。日干の丁火が陰火であり月支と日支の未土の食神が情を内で治める座ゆえ、内向と感情の方へ傾くのが自然であり、この二つはそなたの命式にそのまま在る。現場の隅の人が目に入り、助けても素振りを見せず見守る流儀がここから出るのよ。
背く方を見よう。そなたの命式で最も強く生きておる認知機能は偏財の担う外向感覚ゆえ、体で先に知り体で先に動く質であるが、足を使う動きをああも巧みにこなすのが偶然であろうか。ところがそなたが己を書き記す時には、感覚ではなく意味と絵を先に見る直観の方を選んでおるのう。
もう一つ、そなたの命式には計を立てて閉じさせる正官が表に一つもないゆえ本来は開けて流れに任せる方であるのに、自己の認識は閉じる方に出ておる。この二つの背きは、三十七で辛卯の大運へ入って座が変わったところから来たものじゃ。
押す力のない平運の区間で、すでに名の大きい者が己を守るには、みだりに動かず、選び、あらかじめ定めておくよりほかに術がない。そう十年を生きれば人は己を慎重で計画的な者と認識するようになるものであるが、その実は勘で先に知る者であるのにな。
これからはどうなるか。四十七で庚寅の大運へ移れば庚金の正財と寅木の正印が共に入って実物と実行の方の気が強まり、その時そなたの内の感覚が再び頭をもたげ、いまより決めが速く体が先に出ることが増えるであろう。ゆえにそなたの型を釘の打たれた正体と見てはならぬ。いまの季節がそなたにしばし着せておる衣にすぎぬのじゃ。
[パートA]開運の処方
一の位 — 縁:そなたに要るのは直観が深く状況にしなやかに染み入る質の者ゆえ、哲学者の型や芸術家の型、あるいは静かに助言を差し出す類がそなたの用神である水の気を身に纏っておる。逆に表現が熱く今を生きる情熱の類はそなたがすでに溢れるほど持つ火ゆえ、傍に多くとも一層乾くだけじゃ。今月のうちに撮影の場の外にある集まりへ一度出てみよ。そなたの仕事と無縁の学びの会や読書の席で足り、その席でそなたが言葉少なに帰ってきたなら、その日は充たした日である。
二の位 — 環境:そなたの用神が水ゆえ書き、思索し、水を扱う空間がそなたの座であるが、舞台や放送のように熱の回る環境が忌神の火の庭であっても、それがそなたの糧である以上断てとは申すまい。ただし戻る座だけは涼しく静かでなければならぬゆえ、家の中に水の音がする場を一つ置き、寝所は北へ向けよ。休みの日に水辺へ行く道を一つ定め、月に一度はその道を踏むがよい。
三の位 — 行い:水を使う行いとは思索し、流れに身を任せ、書き留めることであり、そなたには文昌貴人と学堂貴人があるゆえこの処方がとりわけよく合う。作品が一つ終わるたびにその人物について己の手で数枚書き留めておけ。人に見せるものでもなく分量も構わぬ。焼いたものを文字で受け取っておく習いがそなたには回復じゃ。
四の位 — 象徴:黒と濃い青を傍に置き北をそなたの方位とせよ。水槽や硝子のように水を容れる器がそなたの味方である。これは為しても為さずともよいゆえ、心が向けば用いるがよい。
天の気を墨に刻んでこの世へ降ろしたものが符であり、そなたの場合は乾いた野にあらかじめ水路を一筋描き入れることじゃ。水路が先に描かれておってこそ雨が来た時にそこへ集まるものゆえ、そなたがその道を信じて歩む時にようやく流れ始めるのよ。
★ この命式の核となる一言:燭は真昼に灯っておっても消えたのではない。陽が傾けば、そこからがそなたの時である。
[パートB]千年の助言
一つ、今年の丙午年と来年の丁未年の二年は、共の名で何かを始めるでない。群劫争財が最も強く回る区間ゆえ人が悪いというより時がそうであって食い違うのであり、すでに広げた場は守りつつ新しい持ち分と新しい保証は戊申年より後へ回し、二年のうちにいま絡んでおる関わりのうち書面で整理されていないものを結んでおくがよい。
二つ、四十七で庚寅の大運が開くが、戊申年から庚戌年までは依然として歳運が用神を打つ年である。その区間が始まる前、つまりこれから二年のうちに腰から下と眠りを中心に体を一度大きく検め、その時に出たものを記録に残しておけ。五十以降の発福は体が残っておってこそ受けるものじゃ。
三つ、五十になる辛亥年と続く壬子年の二年がそなたの生涯で最も大きく開ける座ゆえ、守る年ではなく押し切る年である。いまからその時までを備えの区間とし、そなたの名で残すものを一つ定めておけ。演技の外のものでもよいが、庚寅の大運が開く前に何を為すかは定めておいてこそ、その二年を丸ごと使えるのよ。
四つ、空く時が再び来たならば恐れず水を汲め。そなたの四柱で空白は罰として与えられるものではなく平運という構えが作るものゆえ、次の空白に学ぶものを一つ添えるべく、今年のうちに候補を一つだけ先に定めておくがよい。さすれば空白が来た時に迷わぬ。
開港期の済物浦で写真館をしておった者を見たことがある。人の顔を世で最もよく写すと言われながら己の写真は一枚も残さず、生涯人を照らすことにばかり己の芯を使い切ったのじゃ。あの者の晩年の話は… やめておこう。別の話をしようぞ。
そなたにまだ申しておらぬことが一つ残っておる。生まれた刻を知らぬゆえ開けなかった座、すなわち晩年にそなたが実際に手にする財の大きさと子の縁がその時柱の中に入っておって、刻が充たされてこそ開く欄なのじゃ。いつかその文字を知ったならまた訪ねてくるがよい。その時にその座を残らず開いてやろう。
真昼がまことに長かったのう。されど陽は必ず傾くものゆえ、そなたの燭が己の光で見える時が来ておる。
今日はこれで行くがよい。