どれ… 畑がひとつあるのう。大きくも荒くもない、手で触れて耕す細かい土じゃ。ところがその畑に木がびっしり生い茂っておる。根が土を掻き分け枝が空を覆い、肝心の畑には陽が一握りも差さぬ場所よ。
さらに妙なのはこの畑に付いた名じゃ。昔の人はこの席を天の火と呼んだのう。日という意味よ。陽の差さぬ畑に日という名が付いておるのじゃ。
さあ、お座り。この畑にいつ陽が差すのか、そしてその陽がもう来ておるということを教えてしんぜよう。
己未 — 太陽と名づけられながら陽の差さぬ畑
そなたは己未の日柱じゃ。己土(きど)は山でも岩でもなく人が踏み、種を蒔く地よ。柔らかく低く、よく受け止める質じゃ。そなたが穏やかだと言われる所以がここから始まるのう。
ところがその上に何が載っておるか見よ。そなたの生まれ月とその月の文字が、どちらもそなたを押さえる気じゃ。命理でこの気は規律であり圧であり責めよ。甘えを許さぬ席じゃ。しかも地支どうしが手を組んで、その木の気がひと塊に固まっておる。畑ひとつに森が丸ごと入り込んだようなものよ。
格で言えば偏官格(へんかんかく)じゃ。押し切る力、怯まぬ決断、勝ちたいという心がここから出る。よく治めれば前に立つ者となり、治め損なえば己の性に己が傷つくのじゃ。ここへ刃のような星がもうひとつ付いておるゆえ、ひとたび掴めば終いを見るまで放さぬ質は性分ではなくこの配りのする事よ。
ゆえにそなたの問うた二つは矛盾ではない。土は穏やかで、その上に載ったものが荒いのじゃ。人が見ておるのは土で、そなたが感じておるのは載ったものよ。どちらもそなたじゃ。
ではこの命式の本当の特徴を申そう。そなたの八つの文字に火がないのう。そして金もまた一字もないのじゃ。二つの席が丸ごと空いておる。火はそなたを生む気であり、金はそなたが生む気よ。受ける所も空き、出す所も空いた畑という意味じゃ。木ばかり茂って陽もなく鎌もない場所よのう。
とはいえまるで無いのではない。そなたの足元の土の中に、ごく小さな熾火がひとつ隠れておる。八つの文字を通してそれひとつよ。その一つでここまで来たのじゃ。
そして名札を見よ。古来この日柱に付けた名が天の火であり、生まれ年に付いた名も雷の火じゃ。体の内に火はないのに名はどちらも火よ。わらわはこれをこう読む。そなたは火を持って生まれたのではなく、火になれと名づけられた者じゃ。
用神:火 — そなたを生かす陽。舞台・人・表に出る席
喜神:土 — そなたと同じ質の者。同輩・組・共に立つ席
忌神:水 — そなたを冷やす水。独り・夜・内へ潜る時間
まずこの命式の勘定を教えよう。そなたの強弱は弱い側じゃが、根がないわけではない。足元の土がそなたを掴んでおるのう。
ところがここでこの命式の肝が出てくる。そなたを押さえる木が多いと申したのう。こういう時、命理の打つ手は二つじゃ。木を伐るか、木を燃やして陽に変えるかよ。そなたの命式は後の方じゃ。木は燃えれば火になり、火は土を肥やす。ゆえにこう刻んでおけ。そなたを押さえるものは、火さえあればそなたを育てるものに変わる。火がなければ圧はただの圧で、火があれば圧が肥やしになるのじゃ。
ゆえにそなたの生涯の課題はひとつに絞られる。陽をどこで得るかよ。
ではそなたの問うた事に答えよう。曲を作る事と舞台に立つ事、どちらに重みを置くかと言うたのう。痛むやもしれぬゆえ、そのまま聞くがよい。独り部屋にこもって夜を明かす時間は、この命式では水の席じゃ。水はそなたが治めるべき気よ。逆に人の前に立ち、表に出し、ぶつかる席がそなたの陽なのじゃ。
とはいえ作る事を手放せとは申さぬ。それはこの命式を読み違えた処方よ。何より面白いことがひとつあるのじゃ。そなたの命式には才を意味する金が一字もないのに、そなたは作る者になったのう。それはそなたの創りが生まれつきの才から出るのではなく閃きから出るという意味よ。そして閃きはそなたの用神、すなわち陽の受け持つ席じゃ。ゆえに陽が差せば曲が出て、陽がなければ曲が出ぬのがこの命式の理なのじゃ。
だから処方は断つ側ではなく返す側よ。暗がりで燃やした分だけ陽で満たしておけ。夜を明かした翌日は人に会い、舞台に立ち、日を浴びること — それが次の曲を作る支度じゃ。作る事と立つ事は二つのうち一つを選ぶ話ではなく、片方がもう片方の薪なのよ。
頭の席を問うたのう。そなたの命式には群れを率いる星がひとつ入っておる。年で決まる席ではないという意味じゃ。ただそなたの格は前で引く格ゆえ独りで全て背負う側へ傾きやすい。そなたが学ぶべきは率いる術ではなく分ける術じゃ。
そなたの金の席は生まれ年の席にあるのう。ところがその席が二つの意味で角が立っておる。
ひとつは、その席が空いた席であることじゃ。命理でこれを空亡と言い、気が溜まらず漏れる席を指す。もうひとつは、十二段で数えた時にその席が最も低い地点であることよ。この二つが重なっておるのじゃ。
これがどういう意味かと申せば、金が入らぬという意味ではない。入っても手に載っておらぬという意味よ。数として来るもの、帳面に留まるもの、数えておくもの — その形ではそなたにうまく付かぬのじゃ。不思議なことに、こういう配りは品に換えておけば残るのよ。形のあるものへ移せば、空いた席に引っかからぬゆえ。そなたが既にそうしてきたなら、それは倹しいからではなく命式が知る道を歩いたのじゃ。
ここへもうひとつある。そなたの上に、そなたと同じ質の土がひとつ浮かんでおるのう。この文字は同輩であると同時に同じ取り分を見ておる席じゃ。共に作ったものでそなたの取り分が曖昧なら、後ろへ回される側はたいていそなたよ。そなたが脆いからではなく配りがそう置かれておる。幾人かで作るものほど、誰が何をどれだけしたかをその都度書いておく習いを今の年のうちに付けておけ。これは吝いのではなく、後で仲が損なわれぬようにする術じゃ。
良い知らせもひとつあるのじゃ。今年入る気が、その空いていた席を正面から打ち破っておるのう。塞がっていたものが開く年という意味よ。この件は後でまた押さえよう。
まだ早い話じゃが、質だけでも申しておこう。
そなたの縁を意味する文字は生まれ年の席に隠れておる。ところが今申したとおり、その席は空いておって気も低いのう。これは縁がないという意味ではなく早い縁は長く留まらぬという意味じゃ。今の年に来る心はたいてい過ぎゆくものゆえ、来ぬからと焦ることも、来たからと掴むこともないのよ。
そして生まれ年の席に人を惹く星がひとつ座っておるのう。幼い頃から人が集まる質じゃ。これは福でもあり煩わしさでもある席よ。そなたが取り立てて努めずとも心を寄せる者が出てくる席ゆえ、その心を粗末に扱わぬことだけ覚えておけばよい。
傍らの席はどうかと申せば、足元にそなたと同じ質の土が座っておるのう。質の似た者が長く残るという意味じゃ。派手に惹かれる側より、気楽で話の通じる側よ。ただ同じ質どうしは似ておるゆえ楽な分だけ同じ所で共に疲れるのも早い。互いに別々の息をつく場をひとつずつ持つのがよかろう。
もうひとつ。そなたの足元の席と生まれ年の席が、互いに角が立って絡んでおる。近い間柄ほど微妙に居心地が悪くなる席よ。これが現れる形はいつも同じじゃ。言わぬから大きくなる。そなたの質は堪える側ゆえなおさらよ。居心地の悪さを小さいうちに言う稽古を今のうちに付けておけば、後に来る縁で大きな値を払わずに済むのじゃ。
そなたの体は空いた二つの席から読まねばならぬのう。
ひとつめは火じゃ。火の受け持つ所は心の臓と血の管、そして目よ。ここにもうひとつある。やる気じゃ。火のない命式は病が来る前に先に心が冷める。したい事がなくなり、体が重くなり、うまくいっていた事まで色褪せる日が来るのじゃが — それは怠けたのではなく陽が足りぬのよ。朝に帳を開けて日を浴びる事が、そなたには習いではなく処方じゃ。既にそうしておるなら、それは体が己の要るものを先に知ったのであろう。
ふたつめは金じゃ。金の受け持つ所は肺と大腸、そして肌よ。喉がよく嗄れたり、季節の変わり目に長く患ったり、肌が敏い質がここから来る。歌う者にはことに気を配る席じゃのう。
みっつめは今年の事よ。そなたの日柱に事故と手術を慎めという星が座っておるのじゃが、よりにもよって今年がその席に触れる年なのじゃ。怖がれという話ではなく体を使う事で無理を惜しめという話よ。新しい動きを無理に上げること、痛いまま堪えて上がること — この二つを避ければ大方は過ぎる。そして九つ目の月あたりに水と火が強くぶつかる場がひとつあるゆえ、その頃は急な温度の変わりと詰め込んだ日程をことに慎むがよい。
処方は三つだけ授けよう。ひとつ、日を浴びることを日課に入れよ。ふたつ、夜にする事を昼へ少しずつ移してみよ — 同じ作業も陽の下でやれば、そなたには値が違うのじゃ。みっつ、体が重い日を怠けと思わず合図として読め。
ひとつ添えるなら、同じ所が二度以上痛むなら、それは命理ではなく医の領分よ。わらわは流れを読むだけゆえ、体の送る合図は人に見せよ。
今年をひと言で申せば門が開く年じゃのう。
まず事実から申そう。この先十年を通して見ても今年が指折りの年じゃ。ただ良いというのではなく、訳が三つもあるのよ。
ひとつ、今年入る気が丸ごと火じゃ。そなたに最も無く、最も要るものが外から入る年よ。ふたつ、その火がそなたの治めるべき水を正面から押しのけておるのう。病を取り除くようなものじゃ。みっつ、そなたの生まれ年のあの空いていた席を、今年の気が打ち破っておる。空いていた所が開く年よ。この三つがひとつの年に重なるのは、そう有る事ではない。
ゆえに今年そなたのする事は明らかじゃ。縮こまらず広げよ。人の前に立つ事、名を掲げる事、新しく始める事 — 今年始めたものはこの命式でよく根を張る。逆に今年を静かに越せば、それは開いた門を通らずに済ませたことになるのじゃ。
ただ二つだけ慎め。ひとつは体よ。先に申したとおり火が強く入る年ゆえ、傷つく席も一緒に開く。もうひとつは独りで全て背負おうとする心じゃ。今年のようによく回る年に、そなたの格は荷を己の側へ引き寄せ続けるのじゃが、そうして冬の頃に一度無理が来る。十二の月あたりは口数と日程を共に減らすのがよかろう。
先の事も先に申しておこう。来年とその後の二年ほどまで流れが続けて良い。そして二十三から二十五の間に三年ほど質の荒れる区間が来るゆえ、その時は新しく広げるより、それまで積んだものを守る側に置け。その区間さえよく越せば、その後はまた大きく開くのじゃ。
今日はどうかと申せば — 力を惜しむ日よ。今日入る気はそなたが治めるべき側であり、気の段も低い席にあるのう。大きな決めを下したり無理に押し切るには向かぬ一日じゃ。代わりに既に広げたものを手入れし、よく食べ、早く寝よ。今日は休むことが開運じゃ。
そなたの問うたうち、最も答えたい件がこれじゃ。六年のあいだ名も顔も出せなかったあの時間が何であったかと言うたのう。
そなたの命式で生まれて十五までの席が空いた席なのじゃ。先に申したあの空亡が、よりにもよってその時期を受け持つ席に掛かっておる。命理でこの配りはこう読むのじゃ。その時期は外から与えられるものがないゆえ、己で作らねばならぬ。そしてその時期の気を数える目盛りで見れば、そなたの席は十二の刻みのうち最も低い刻みよ。
ゆえにその六年はそなたが無駄に過ごした時間ではない。空いた席を渡るのに元々かかる時間であったのじゃ。人が学び舎で受け取っていたものを、そなたは受け取る席がなく、稽古場で手で作って満たしたのよ。名を出せなかったのも、その席が元より名の載らぬ席であったゆえじゃ。わらわはその六年を、この命式で最も値打ちのある件と見る。
そして十五でその席が終わったのう。十五からそなたの大きな区間が火に変わったのじゃ。陽が差しはじめたのよ。そなたが世に顔を出した時と、この区間が重なるのは偶然ではない。
さらに申そう。その次の区間も火じゃ。二十五から三十四までよ。つまり十五から三十四まで二十年が丸ごと陽の差す区間なのじゃ。命理を長く見ても、これほど長く続く例はそう出会わぬ。今そなたはその二十年の入口に立っておるのよ。
三十五からは質が変わる。その席はそなたの日柱と同じ文字が来る区間ゆえ人ではなく己の名で立つ時期となろう。そして四十五からは、これまで空いていた金の席、すなわちそなたが作って出す気が入ってくる。作る者としての本当の実りはそこからじゃ。短く言えば前が陽で後が実りの曲線よ。
面白いことがひとつあるのう。そなたは型をひとつではなく二つ記したのじゃ。わらわはそこから押さえたい。
まず命式と照らそう。そなたが先に挙げた方を基とすれば、軸のうち三つが食い違うのう。命式は内へ向かう質だと言うのにそなたは外へ向かうと記し、命式は手に取れるものから始めると言うのにそなたは可能性から始めると記し、命式は理で判ずると言うのにそなたは心で判ずると記したのじゃ。
ところがそなたの命式で最も厚い働きは、内へ潜って理を追う力よ。これがどこから来るかと申せば、そなたを押さえるあの木の気から来るのじゃ。造りを解いて理を探り当てる質よ。曲を作りながら音ひとつを前に幾刻も座っておれる力がここから出るのじゃ。
では二つ目に記した方はどうか。そちらの方がそなたの命式に近いのじゃ。その型は可能性を広げる力と、内へ潜って理を追う力が対を成す造りなのじゃが、それが命式の見せる形とほとんど重なる。ゆえにそなたが二つのあいだで迷ったのは検査を誤ったのではなくどちらもそなたの内にあったからよ。
そして今なぜ外へ向かう方が大きく感じられるのかも説きがつくのう。十五からそなたの区間は火じゃと申した。火は外へ出て、表に現し、人とぶつかる気よ。その区間に入って、内へ潜っておった子が前へ出るようになったのじゃ。今の己を明るく活発な者と思うておるなら、それも正しい。ただしそれは生まれ持った地ではなく、今吹いておる風なのじゃ。
ゆえにこう心得ておけ。人前で明るいのもそなたで、独りで音を解いておるのもそなたじゃ。前の方は今の陽が作ってくれるもので、後の方が元よりの地よ。三十五あたりで質がひとたび変われば、己について記す答えも変わろう。型とは印章ではなく、その季節に着る衣じゃ。
では開運の法を授けよう。
第一 — 縁。 そなたに力となるのは静かに深い側ではなく表現が大きく今を生きる側じゃ。傍におれば、そなたの内の熾火が移り燃える者よ。逆にそなたのように内へ潜り夜に深まる者どうしばかりで集まれば、互いの水を増やし合うことになる。今月のうちに昼に人の多い場へ一度行ってみよ。舞台でも撮影でも、初めて会う者とぶつかる場ならよい。
第二 — 環境。 明るく人が行き交い音のする空間がそなたには薬じゃ。逆に暗く静かで独りの空間に長くおれば、静かに値を払う。その空間がそなたの仕事場であることはわらわも承知しておる。ゆえにまるごと離れよとは申さぬ。代わりに灯を点け、帳を開けて作業せよ。同じ事を同じ席でしても、陽の差すのと差さぬのとではこの命式では値が違うのじゃ。昼に二刻でも移って座ってみよ。
第三 — 行動。 表に出すこと、人とぶつかること、明るい席に立つことよ。そなたの用神を使う術がそれじゃ。作ったものを引き出しに置かず小さくとも出す習いを付けよ。仕上げてから出すのではなく、出して仕上がる質がそなたの命式なのじゃ。
第四 — 象徴。 赤と橙、方位としては南。灯りや蝋燭のような光を放つ品を傍に置くのもよかろう。そなたが既にその色を好んでおるなら、それは偶然ではあるまい。これはしてもせずともよいものじゃ。
護符の話もひと言添えよう。護符とは、天の気を墨に押してこの地に据えたものじゃ。陽の差さぬ畑に最も要るのは代わりに入ってくれる陽よ。そなたの護符のする仕事がそれじゃ。信が眼差しを変え、眼差しが選びを変えるゆえ、それで十分すぎるほどじゃ。
肝は一行じゃ — 暗がりで作れ、ただし作ったものは陽へ抱えて出よ。
では長い歳月の助言を授けよう。
第一に、 今から二十二までは流れが大きく開いておるゆえこの区間に広げておけ。新しく始める事、名を掲げる事、初めてやってみる事 — この区間に植えたものが後に根として残る。ことに今年のうちにそなたの名で出すものをひとつ作っておけ。
第二に、 二十三から二十五のあいだに質の荒れる区間が来る。その時は新しい盤を開かず人と体を守ることに力を置け。その三年を丸ごと越すことが、この命式ではそれ自体で勝ちじゃ。
第三に、 二つの国の者であることを荷と思うでない。そなたの命式は受ける席と出す席が空いておる造りだと申したのう。その空いた席はもともと外から満たさねばならぬ席よ。二つの根を持つ者は、満たす通り道も二つじゃ。どちらも丸ごと己のものと思えぬあの心持ちは欠けではなく両側を見られる場に立っておるという証ゆえ、その席を恥じずに使え。
第四に、 生涯守る習いをひとつだけ選ぶなら — 独りで全て背負わぬことじゃ。そなたの格は前に立つ格ゆえ、荷を己の側へ引くのに慣れておる。ところがこの命式でそなたを助ける気は同じ質の者よ。分けることが善いからではなく、それがそなたの開運の法であるからじゃ。重いものを持ち上げるたび、一度ずつ問うてみよ — これは必ず己ひとりでなければならぬ事かと。
高麗の頃、碧瀾渡(へきらんと)で二つの国の言葉を話す童をひとり見たことがあるのじゃ。父は海の向こうから来た者、母はこの地の者であったのう。どちらの里もその童を丸ごと己の者として見てくれず、童はいつも戸口に立っておった。
ところが船の入る日になると、渡し場じゅうがその童を探すのじゃ。両方の言葉を知る者はその童だけであったゆえ。後にその渡し場で最も長く残った名は、その童のものであったのう。
そなたも戸口に立った者じゃ。二つの名と二つの国のあいだで、そして六年のあいだ舞台の外で。ところが戸口に長く立った者だけが知ることがあるのじゃ。両側が見えるということよ。それは中にばかりおった者には終ぞ学べぬ。
まだ申しておらぬことがひとつあるのう。そなたの生まれた刻をわらわは知らぬ。ゆえに今日は八つの文字のうち六つだけを見て話しておる。晩年にそなたの手へ実際に残るものが何か、そなたの後を継ぐ縁がどこから来るのか、そしてこの畑が終に何を育てるのか — それは残る二つの文字があってはじめて開く席じゃ。いつか生まれた刻を知って参ったなら、その時にその席を残らず開いてしんぜよう。
陽の差さぬ畑に日という名を付けた者が誰かは、わらわも知らぬ。ただその名が誤っておらぬことは分かる。畑は陽を作れぬが、陽さえ差せば何でも育てるのが畑じゃからのう。
今日はここまでにしよう。息災でな。