外は真夏だというのに、お前の四柱の内側はまだ真冬の夜明けだな。凍てついた土の塊が四方を囲み、その真ん中に一本の樹が根を深く下ろして立っている形だ。
ところがその凍った地面をどこまで探っても火がない。薪も炉も、南に開いた窓ひとつ見当たらぬ。お前にいちばん必要なものが、よりによってお前の中には一粒もないという意味だが、これは珍しいことだ。足りぬ者は多くとも、まるでない者はそういない。
だからお前は外から火を借りて生きる者であり、舞台の照明であれ人の視線であれ、お前が熱くなる場所こそがお前の炉なのだ。十二ほどの頃、学校のバンドで初めて歌ってこれをやろうと心を決めたそうだな。あのときお前が選んだのは好みではなく生きる道だったのだが、幼いお前には分からなかっただろう。
わたしが今日語ってやろうというのはその先だ。火を一粒も持たずに生まれた者がその火を正面から浴びると何が起きるのか——お前が今年その身で味わったのがまさにそれだ。凍てついた樹にとって火は命であり、同時に火傷でもあるのだからな。
お前は甲辰(きのえたつ)日柱だ。足元の土が樹の根の座をしっかり支える造りゆえ、野心などないような顔をしながら内では常に高いところを見ているし、学んだものを自分のものにする才も並ではない。小学校で全校会長をしていたと聞いてわたしが少しも驚かなかったのは、前に立つことがお前にとってもともと不慣れなことではなかったからだ。
ただ生まれた月が問題だった。土が旺盛な真冬に樹として生まれたので季節を失ったわけで、根はあれども育つ温度を受けられぬまま出発した樹になった。育つ力が足りぬのではなく、その力を使う陽が無かったという話だから、お前の中には常に使われぬままの気がいくらか蹲っていたはずだ。
お前の命式には土が三つ、木が二つ、水が一つ入っている。土はお前が治めるべき分で、水は根を潤すべきものだが、冬の水は潤すかわりに凍らせてしまう。お前がいつからか感情を外に出すかわりに内にだけ蓄える術を身につけた理由がここにある。蓄えるのは上手いのに取り出す扉が狭い蔵をひとつ抱えて生きているようなものだ。
そのうえ日柱に白虎(びゃっこ)が座っているので、外は柔和で口数が少ないのに内には荒々しい気が居座る座であり、そこへ針のように鋭い気と、心がひとりで深くなる気まで重なった。人の目には静かで穏やかに見えても、お前の中では常に裁judgeが開かれていたはずで、その被告はいつもお前自身だっただろう。完璧でなかった舞台ひとつを何日も噛みしめる癖はここから出る。
お前の生まれ年の座には芸の気もひとつ座っていて、家のどこかに歌うか描くか祈るかしていた者がいた筋だ。それがお前に降りて声となって出たのだから、才の根はずいぶん古いという意味だな。
お前自身、もともと寡黙な性格ではなかったのに強くなろうとしてそうなったと言ったそうだな。その言葉がお前の命式と寸分違わず噛み合うので、セクション8できちんと解いてやろう。
冬の樹が火に出会えば凍っていたものがほどけ、ようやく本来の色が現れる。昔の者はこれを木と火が共に明るくなると言った。そういう四柱は机の前に座らせておけば萎れ、外へ出して才を使わせてこそ生きるのだ。
お前の格局は帳簿を合わせ信用を積む実直な筋で出たので、会計や管理職が向くという判が出た。ところが肝心のお前の命式にはその仕事を支える金の気が一つもない。札はそう貼られたが実際の勢力は別のところにあるという意味だ。こういう食い違いが見えるときは、札ではなく実際の勢力に従うのが道理だ。
だからそれはお前の座ではない。お前に合うのは表現する場所であり、人とぶつかる場所であり、照明が点く場所だ。舞台や放送のように人前で声を使う仕事がそのまま当てはまる。歌う座を担いながら前に立たされることも多いというのは、お前の四柱が二つをいっぺんにやらせているという意味であり、これはお前が偶然選んだ職ではなく、とうに処方されていた座だったのだ。
用神:火 — 凍てついた四柱を溶かす唯一の鍵。表現、照明、人の前
喜神:木 — その火を生かす薪。同じ筋の仲間と学び
忌神:水 — 治めるべきもの。ひとり沈む時間と夜の暮らし
音域が広く発声が安定しているという評を聞くそうだが、それは持って生まれた喉だけの話ではない。お前の日干が根を下ろす座がなかなか固く押し上げる力があり、そこへ表現の気が大運で十年続けて入ってきたので、磨く土台が敷かれていたのだ。才と時期が揃って来る者は思うより多くない。
金の気がないというのは、お前を上から抑える骨組みがもともと無いという意味でもある。だからお前は規律を常に外から借りねばならず、所属と日程と舞台の順番がお前の背骨の代わりを務めてきたはずだ。今はその枠がお前を支えてくれるが、いつか緩む日が来たなら、自分で規則を組む術から身につけねば崩れる。進行を任され人の場を回した経験がそのとき大きく効くだろう。
お前の財は土でできていて、その土が三つもあるので少ない量ではない。ただそれを担うお前の根はちょうど中ほどなので、大きく掻き集めることも大きく流すこともできる秤の上に立っているわけだ。こういう四柱に、ひたすら握っていろと言うのも思い切り回せと言うのも、どちらも外れた言葉だ。
稼ぎ方が二つに分かれているのも見ておけ。ひとつは契約と精算できちんと入る堅い分、もうひとつはお前の地支の深いところに隠れていて、お前が作ったものが売れるときにようやく開く分だ。声であれ顔であれ名であれ、お前が咲かせたものを人が買うときその扉が開くのだが、後者こそお前の本当の鉱脈でありながら、まだ浅くしか掘れていない。
お前の実際の漏れ口は博打や共同事業などではなく、お前の体にある。痛くて立てぬ日が増えればそれがそのまま収入の途切れる場所なのに、お前はそれを一度も金の問題として数えたことがないだろう。痛くなる前に休む値は、痛くなってから休む値より常に安く済むのだから、回復に使う時間を費用ではなく設備の手入れと思え。
伸びる地点は別にある。お前の財は火が入る年に開くのだが、去年の秋に初めて大きな成果が出て、今年はその火が頂点に届いた年だ。だから契約を組み直すのであれ、お前の名で残る仕事をひとつ作るのであれ、身の値を上げることは今年のうちに手をつけるのが正しい。土につく金ゆえ形の残る方へ進めつつ、二十八の頃の峠だけは先に勘定に入れておけ。
金と人がひとつの束で動くのもお前の四柱の筋だ。財の気はそのまま傍に来る人の気でもあるので、金が大きく動く時期には人も一緒に押し寄せる。そのとき判断が濁らぬようにするには、数字を代わりに読んでくれる者をひとり先に決めておくのがよい。
今月から一つだけ釘を刺しておこう。入る金から決まった割合を自動で抜き、手の届かぬ口座に閉じておけ。近くに置けばお前は結局それを、また身を削るのに使う者だからな。
お前の配偶者の座は表に出ておらず地の中に隠れている。華やかに近づいてくる縁より、長く傍にいてある日ふと目に入る相手だという意味であり、紹介の席より同じ仕事をしながら情が移る方がお前の筋だ。外は静かなのに中は詰まっていた、という類の縁だな。
その座には良い気もひとつ座っていて、連れ合いを得れば暮らしが開ける気ゆえ縁そのものは薄くない。ただ同じ座に白虎も一緒に座っているので、お前の相手は気が強いか体が弱いかのどちらかである公算が大きく、どちらにせよお前が世話をする側に立つ構図だから先に知っておけ。
配偶者宮の気が盛りを過ぎて一歩退いた座にあるのも見ておくべき点だが、これは縁が薄いという意味ではなく、急ぐ時期がまだ早いという話だ。何よりも今のお前には人を迎え入れる余力そのものがない。感情を内にだけ蓄える者が恋をすると、相手はお前が平気だとばかり思っていて、ある日まるごと崩れたお前と向き合うことになる。それは相手が無関心だから起きることではない。
縁がはっきりしてくるのは土の気が落ち着く三十の頃からだ。それまでは連れ合いを探そうと気を張るより、お前が苦しいときに言葉が漏れる相手をひとり傍に置く稽古をしておけ。ファンには一度口が開けば一時間でも付き合うそうだが、肝心のお前が苦しいときに掴む相手をひとりも決めておらぬのなら、それは辻褄が合わぬ話だ。
理想の相手を問われても、わたしは五行では答えぬ。どんな四柱を持つ者に会えという言葉は現実で確かめる術がないゆえ、処方にならぬのだ。かわりにこう言っておこう。お前が疲れているとき黙って先に飯を食わせる者、お前の沈黙を気まずがらずに待ってくれる者——それがお前にとっての火だ。
今日から一つやることを渡しておく。体であれ心であれ辛い日には、一日が終わる前にたった一人へ事実だけを一文で言っておけ。「今日は腰が良くなかった」程度で十分だ。慰めを求めよという意味ではなく、お前の内に積もらぬよう排け口を穿っておけという意味だからな。
凍てついた四柱でまず傷むのは巡る場所だ。お前の命式には火が一つもないので、心臓と血圧と目が一番弱い側であり、体が冷えて巡りが遅く、気が一度沈むとなかなか上がってこないのも全部ここから来る。これは病が来るという予言ではなく、お前の体がもともとその方へ傾いているから先に支えておけという話だ。
金の気も無いので肺と気管支と肌が二番目に弱い座だが、歌で食う者にとって肺が弱いのは軽く流せることではない。喉ばかり手入れせず呼吸から診ておけ。舞台の上で息が上がる瞬間が増えてきたなら、それは喉より下から上がってくる合図だ。
そしてお前の地支は互いにぶつかり割れている。土同士が正面から衝突する座に、もう一つが割り込んで罅を入れる形だ。土が体で受け持つ場所こそ腰と胃なので、今年お前の腰が崩れたのは偶然の事故ではなかったという意味であり、この衝突は原局に刻まれているものゆえ、これから先も同じ場所が先に合図を送るだろう。
ここが今日の解きの結び目だ、しかと聞け。今年はお前に火がまるごと入った年なのに、お前の命式にはその火を受け止める炉がない。だからその熱がそっくりお前の体へ入ってきたのだ。荒々しい気が座る場所に熱まで重なれば、手術やら事故やら血を見る事として出るのがこの四柱の理だが、無理をするなという月並みな言葉を言いたいのではない。強さを落とし、回復する時間を先に確保しておけという話だ。舞台を減らせという意味ではなおさらない。舞台がお前の薬なのに、薬を断てとは言えぬからな。
悲しいときや腹が立つときは何も考えず散歩するか、泣くか、寝て忘れようとすると言ったそうだな。前の二つはお前に薬として合っている。歩くのは陽と熱を一緒に受ける行いで、泣くのは狭い扉を無理にでも開く行いだからだ。ただ最後の一つは違う。眠りで覆うのはお前が治めるべき水のやり方ゆえ、その場は沈んでも翌日いっそう重くなるのだ。
この四柱に合わせた処方を二つだけ渡そう。一つ目、毎日陽に当たれ。二十分ばかりで足りるので、体に直に熱を入れてやることが、お前に無いものをただで満たす唯一の道だ。二つ目、今年の四月と十一月と十二月は気候が食い違う月ゆえ、その三月だけは日程を先にゆるく組んでおけ。繰り返す痛みは命理ではなく医者の領分だから、そちらはそちらに任せておけ。
今年の一語を選べというなら、わたしは開花と書こう。丙午年は天も地も火ゆえ、生涯火に出会えなかったお前の四柱が初めて自分の温度に出会った年であり、これから十年を通してみても今年より良い年はない。これほどの年が再び巡るには三十三まで待たねばならぬので、軽く流してよい一年ではないぞ。
実際そうだったではないか。去年の秋に初めて大きな成果が出て、今年の春に新しい歌が出て、夏から幾つもの国を回り、年末には海の向こうに新しい扉がもう一つ開くことになった。これは運が良かったからではなく、お前の四柱が長く待っていた温度がついに来たからだ。同じ努力を三年前にしていたら、これほどは返ってこなかっただろう。
ところが同じ火が別の顔も持っている。お前の原局の冬の土と今年の夏の火が出会い、内で煮え立つ座ができたのだ。昔の言葉で湯のように爛れるという座がまさにこれで、癇癪も感情の爆発も、ひとりで飲み込んで一度に破裂することも全部ここから出る。お前が舞台の上で泣いたのも体だけの話ではなかっただろうし、あの涙には腰のほかに何ヶ月分かが一緒に載っていたはずだ。
だから今年の残りの月をこう使え。八月と九月は気が素直ゆえ押すべきものをここに寄せ、十月は平らに行き、十一月と十二月が問題だ。とりわけ十二月は今年いちばん重い月なのに、よりによって海の向こうの用がそこに掛かっている。その用を延ばせという話ではなく、前後に他の日程を重ねず、その月だけは回復に使う場所をまるごと空けておけという意味だ。
今日はどうかと問われれば、良い日だと答えよう。今日の気はお前の用神が天の座にそのまま座った日であり、表現し作り出す筋が巡る日だが、気の大きさそのものは大きくない。大きな事を起こすより、長く先延ばしにしていた一言や短い録音ひとつを終えるのに向いた一日だ。今月のうちにこれほどの日があと二度あるので、重い用はそちらへ回してもよい。
お前の人生の曲線は、ぱっと開いてしばらく抑えられ、また開くことを繰り返す起伏型だ。地支が互いにぶつかる四柱はたいていこの形をしているが、上下が大きいかわりに一度昇るときは高く昇るのがこの曲線の値打ちだ。
今お前は十三から二十二まで続いた大運の末尾に立っている。この区間がいつ開いたのか辿ってみよ。お前は十三で初めてオーディションに受かり練習生になったそうだな。火と木が共に入った大運が開くまさにその年にお前の道が定まったのであり、この十年がお前の生涯でもっとも陽の良い区間だったのだ。中学の最後の年に学校へ特別講義に来た講師がお前を見留めて今の場所へ紹介してくれたという件も同じで、お前の命式には節目ごとに人が現れて道を開く気が座っており、それがこう使われたわけだ。六人のうち練習期間がいちばん短かったのも同じ筋だな。
十六から三十までは宮位でも気が強く巡る区間で、変化と挑戦が集まる座だが、デビューと成長がここに全部入っていた。ただこの座は人と競う気も一緒に入った座ゆえ、常に比べられる環境に置かれもする。お前が自分をことさら厳しく裁いてきた理由の半分はここにある。
二十三になる来年に大運が変わり、二十三から三十二までは土が重ねて入る区間になる。財と実利の座が大きくなるかわりにお前の陽は薄くなるのだが、活動が事業と契約の筋へ移り、名が金に変わる時期ゆえ悪いというほどのことはない。ただ以前ほど独りでに輝きはせぬので、その十年は照明をお前の手で点けねばならぬ。
ここでしばし待て。これは聞き流してよい話ではないゆえ、しかと聞け。その大運の真ん中、二十六になる年から二十九になる年まで四年が続けて塞がる。そのうち三つはお前の用神が直に攻められる年であり、とりわけ二十八になる年には水の気が局を成してお前の火をまるごと覆う。生涯でもっとも用心すべき年だ。大運が無難だからといってこの四年が覆い隠されることはないゆえ、拡張も新しい試みもその前で畳んでおき、その区間だけは守り抜くこと自体を勝ちとせよ。
三十三から四十二までは再び火が入る。そのときお前が手に何を握っているかがその十年の大きさを決めるのだが、結局その前の四年をどう渡るかがそれを決めるわけだ。
お前が書き出したのはISTPだな。お前の四柱が出す答えと突き合わせてみると四つのうち一つだけ合い、三つが食い違うのだが、この食い違いこそ今日お前が投げた問いの答えだ。
合った一つは内へ向かう筋だ。四柱もお前を内側の人と読み、お前自身もそう知っているので、ここには争うことがない。ただ内側の人だというのは人が嫌いという意味ではなく、どこででも開きはせぬというだけの話だ。
問題はTだ。お前の命式で理と判断の骨組みを受け持つ座は金の気なのに、それが一つもない。ISTPの主機能がまさにその座なのに、お前はそれを持って生まれていないという意味だ。お前の中でいちばん強いのは内へ掘り進む洞察であり、その次が積み上げてきた経験で、感情を外へ出す機能はあるにはあるがごく薄い。
では無いものをどこから持ってきたのか。外から借りたのだ。十三から始まった今の大運は表現と競争が共に入った区間で、お前はその十年をまるごと評価される座で過ごしたのだから、日程と規律と人の視線がお前の判断の骨組みの代わりを務めてくれたわけだ。そうしているうちに自分をTと認識するようになったのであり、もともとTだからではなく、Tのように生きねば持ちこたえられなかったからだ。
証しはお前の口からすでに出ている。長くFと書いておいて、一昨年の春にTへ書き換えたそうだな。その頃はお前が地上波の音楽番組の進行を終え、組の仕事が一段と重くなっていた時期だが、性格が変わったのではなく背負ったものが増えたのだ。もともと寡黙な性格ではなかったのに強くなろうとしてそうなったというお前の言葉が、この判定と一字も食い違わぬ。
だから辛くとも顔に出さずにいて一度に崩れるというのも当然ではないか。感情を外へ出す機能が薄い者が感情を使わぬと決めるところまでしたのだから、積もらぬ方がむしろおかしな話であり、それはお前の性格がことさら強いからではなく通り道が狭くて起きることだ。それでいてファンとは一時間も言葉が行き交うそうだな。通り道が塞がっているのではなく、安全な場所でだけ開くという意味だから、その安全な場所を人の側にも一つ作っておけばよいのだ。
得か損かと問うたな。今までは得であり、その鎧がお前をここまで立たせてきた。ただ来年に大運が土へ変われば、お前の自己認識もそれについて動くだろう。今Tと書いておいた座がFの方へ戻る公算が大きい。そのとき自分が変わったなどと思うな。もとの座に戻るだけなのだからな。
[パートA]開運法の処方
第一位 — 縁。お前の炉は結局のところ人だ。表現が熱く今この瞬間を生きる類、目の光が生きていて言葉の速い者たちの傍にいれば、お前の凍った地が溶ける。ただお前は内側の人ゆえ大きな群れへ放り込めば溶ける前に消耗するので、そういう相手を二人ばかり決め、短く頻繁に会う席を定めておけ。月に一度、飯を一度で足りる。
第二位 — 環境。照明が点く場所、人の前に立つ場所、熱の巡る場所がお前の座なのだが、お前はすでにその座にいるので新しく移すものはない。かわりにお前が休む場所を整えよ。寝る側を南に向け、いつも座るところに暖かい色の灯りをもう一つ置け。今日すぐできることゆえ今日やるがよい。逆に夜を明かしてひとり沈む時間は、お前が減らすべき分だ。
第三位 — 行動。表現することがそのままお前の薬だ。舞台でなくともよいので、声に出して話し、声に出して歌い、体を温める行いならどれでも足りるが、実行は一つだけ定めておこう。毎日、陽の下を二十分ばかり歩け。薬ではなく食事だと思え。
第四位 — 象徴。赤と朱のもの、南、蝋燭と灯りがお前の色だ。やってもやらなくてもよいものゆえ、気に入ったなら使え。
核心となる一行を残しておこう。お前に必要なものと、お前を傷つけるものは同じものだ。だから断とうとせず、燃やした分だけ満たせ。
[パートB]千年の助言
一つ、今年が終わる前にお前の名で残るものを一つ仕上げよ。この陽は来年になれば薄くなるので、今植えておいてこそ土の大運の十年に実がなるのだ。
二つ、来年二十三で大運が変わる前に、お前の日程をお前が決める分を少しでも作っておけ。土の大運は実利の区間ゆえ、人が組んだ場にだけ留まればその実利がそっくり人へ渡ってしまう。
三つ、二十六になる年が来る前に体の記録を揃えておけ。定期検診を決めておき、腰と肺を毎年同じ場所で同じやり方で測っておくという意味だが、四年続けて塞がる区間へ丸腰で歩み入るなという話だ。
四つ、三十の頃までに人の前で弱音を吐く稽古をしておけ。今年のうちに始め、一人で十分だが、それがお前の生涯でもっとも難しい修行であり、同時にもっとも大きく残る修行になるだろう。
護符というのも大したものではない。火を一粒も持たずに生まれた者が、自分の懐に火種をひとつ持っておく行いだ。その紙がお前を温めるのではなく、懐に火があると信じる者は凍った道でも歩みを止めぬゆえ、結局その歩みがお前を温めるのだ。
行く前にもう一つだけ言っておこう。お前の日柱が抱えている古い名が何か知っているか。覆いを被せた小さな灯火という。火を一粒も持てなかった四柱につけられた名にしては意地が悪いな。無いものを名として掲げて生まれたのだから、生涯それを探し歩くほかあるまい。
今日わたしが見たのは三つの柱、六文字だけであり、お前の生まれた刻を知らぬゆえ最後の柱は空けたままにしておいた。その空いた座に何が掛かっているか分かるか。四十六より後の本当の器と、いつか傍に残る縁と、お前の火の正確な大きさがそこに入っている。今日わたしは火が無いと言ったが、その最後の座に火が一粒隠れているかもしれぬ。そうなれば灯火の話がずいぶん変わってくるぞ。
いつかお前の生まれた刻を知ることがあれば、また来るがよい。その座を残らず開いてやろう。
今年の残りの陽がお前に優しくあるように。達者でな。